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【第17回】 朧 (おぼろ)会議 (その1) [第2部]

影、つどう 〈第17回》
 -朧 (おぼろ) 会議(その1)-

BGM 河合憲司 “City 13” (映画 “Avalon” より)

 

  ――何してるの? あの人ったら。

  二本柳螢は眉をひそめた。
  ステージを挟んだ下手側の箱形階段に、一年の副部長下斗米悦史と並んで火野卓也が座っている。
  火野は奇妙な行動を取っていた。
  ふざけているのだろうか?  神経質な動作で、がっくり落とした首をきょろきょろ見回し異様に激しい瞬きを繰り返す。しかも気のせいだろうか、左右の瞼が全く別々に開閉している。
  持ち前の物好きぶりを発揮して、何か妙な一発芸でも身につけたのだろうか? あれは、そう。多分あれだ。大分前にタモリがテレビでやっていた、阿呆らしいイグアナの真似だ。  
 それにしても、隣で呆れている下斗米の当惑した表情は何だろう。到底冗談ごととは思えない表情だ。無理もない。火野の動作はあまりに真に迫り、どこか人間には不可能な筋肉の動かし方をしているようだ。
 そう言えば、てんかんを起こした人、と言うのは、えてして眼球があんな風に動くのではなかったか?

 ――知るもんですか!  

 螢は決然と火野に向かって歩き出した。その肩をぽん、と誰かが叩いた。
 振り向くと、安西曜子だった。
  螢の耳許に口を寄せて、曜子は二言三言囁いた。周りがうるさすぎて何を言っているのかよく分からない。曖昧な表情で頷くと、曜子は下卑た大声で笑い、そのまま二階へ続く階段へ走り去った。  
 螢は乱暴な足取りでホールを横切った。 


   「先輩。火野先輩?」

  金縛りが解けたように、体がびくん、と跳ね上がった。
  毛穴、と言う毛穴からどっ、と冷たい汗が噴き出してくる。まるで全身が失禁したようだ。
  焦点が合うと、目の前に二本柳螢のすらりとした姿があった。

  ――なんだ? 何があったんだ?

  卓也はのろのろと立ち上がりかけ、やにわに愕然とした。
  記憶のある部分が完全に抜け落ちている

  数秒の時間が経過した感覚だけは途切れずに残っていた。しかし大量に印刷された書類に一枚だけ白紙が紛れ込んだように、その数秒間は完全な空白だった。
  動悸が激しさを増し、血液の巡りがついて行かなくなる。貧血に似た目眩が襲ってきた。

  「大丈夫ですか? 先輩」

  下斗米が不安げに顔を覗き込んでいた。
   何も目にしなかったような声で、螢は頭上から卓也に言った。

  「火野さん。今、お手隙ですよね」

  硬直した卓也の心に、螢の声はひどく遠く響いた。

  「話し合いたいことがあります。下斗米くん、あんたも来て」

  随分長い間、螢は辛抱強くそこに立っていたようだった。天井から降り注ぐ太陽の光に似せた合成光が、銀の眼鏡に反射して卓也の目を射た。
  いつになく穏やかな螢の態度が卓也に落ち着きを取り戻させ、そして同時に新たな動揺をもたらした。
  やっと自分に返ると同時に、事の重大さが次第に分かって来た。
  かげにひなたに様々な衝突を繰り返した挙げ句、螢を筆頭と仰ぐ女子部員たちは今や、その大半が卓也の潜在的な敵に回っている。安川一子とただ二人の三年生で、昨年は副部長も務めた卓也だったが、部の運営に関しては大概蚊帳の外に置かれていた。今では任期も終わり、肩書きだけの役職さえない。 なのにこの期に及び、会合へ出ろと螢は言う。しかも出向いてきたのは螢本人だ。
  どうやら本式の会議ではないらしい。とすれば考えられる理由はたった一つ。
  久方ぶりに俺の吊し上げだ。
  昨夜のリターン・マッチだ。
   ほかにどんな理由がある?――
  体育館を取り巻く闇のどこかで、雉が一羽、狂った様に鳴いていた。


 どこかで雉が鳴いていた。
 激しく羽激く気配すらある。
 もうそんな季節でさえないというのに。
 卵を狙う狐もイタチもとうの昔に姿を消し、そのように鳴き騒ぐ一体いかなる理由があると言うのだろう?
  警告なのか。
  何の。そして何者のための。

  演劇部に限って言うなら、前夜襲った地震の被害は甚大だった。完成直前だった書き割りにポスター・カラーがこぼれ、一枚が台無しになった。
  それと、慌てて走り出した衣装係
の小池ゆかが踏み割った、人形と呼ばれる書き割りの支えが一体。 ゆかはこれに足を取られて転倒し、膝頭を擦りむいた。人的被害はそれだけだった。
 しかし坂越の市内では玄関先で足首を捻挫した老婆が唯一の負傷者に数えられたのだから、ゆかの負傷が報道されなかったのは各新聞社の怠慢と言うべきだろう。
  しかし、結局前夜の地震で一番損をしたのは、書き割りと人形の制作者である
大工コンビ――大道具係の工藤哲矢と大友兵衛だった。
  やっと新しい書き割りに下絵を描き直し、一端書き割りをどかして人形の修理に取りかかったばかりの工藤の所に、二本柳螢がやって来た。後にはなんと仏頂面の火野卓也が
いる。
  工藤は内心げっそりした。この二人が仲良く連れ立って来ること自体が、既に尋常ではない。なんにせよ、また何かろくでもない事態が起こったのだ。
  6時を大分回り、練習は終了に近付いていた。トタン屋根を時折叩いていた雨音はいつしか間遠くなり、まどろみ始めた夜気には静かに鉄の錆びて行く匂いが沈殿していた。ギャラリーの上ではどんぐり眼 
(まなこ) に眼鏡の藤原綾緒が『機動戦士ガンダム』の再放送を見逃した、と大騒ぎしている。

  「哲っちゃん兵衛は? こっちに来てたみたいだけど」
  「忘れ物ば取りに、教室さ行ってら」  

 惚れた女と並んで座り、こんな雨音をいつまでも黙って聞いているのもいい、などと柄にもなく空想していた工藤は、現実に引き戻されてぶっきらぼうに答えた。

  「ちょっと! どうやって校舎入るのよ。もう鍵閉まってるでしょ」
   「おめの教室、窓の鍵壊れでらえんちぇ」
   「1組の窓って、‥‥‥何? まさか雨樋かなんかよじ登って二階へ上がるわけ?」  

  螢は目をつぶり、こめかみを揉んだ。 そう。よく分かっているのだ。進藤にせよ火野にせよ、無論大友にせよ、およそ男の子、と言う生きものは決して人間の部類に数えてはならないことぐらい。 

  「哲っちゃん。話があるの。今、手空く?」

  工藤はむっつりと頷いて、教室棟側のギャラリーに首を向けて怒鳴った。

  「こらササキン! 遊んでねえでいい加減こっちさ来 
(こ)!」
  「なあに? 
大統領 さん」

  巻き上げ式になっているバスケット・ボール用ゴールネット
の側から、眼鏡をかけた小柄な少年が顔を出した。先ほど脇役をつとめていた佐々木勤だ。

  「何よ。
そのダイトウリョウ、づうのは!」
 「大工の棟梁で 大棟梁 

  よっ、大統領! と森美江がステージから手でメガホンを作って茶々を入れた。衣装係の片割れ大竹よつ子と、いつの間にか舞台に戻っていた落ち着きのない藤原綾織が、顔を俯 (うつむ) けてげらげら笑った。女どもには構わず、工藤はギャラリーの佐々木に三寸釘を投げつけた。

  「なめだ口叩いでねえで、この人形ばさっさど直せ。釘の二、三本もぶっ込んどきゃ何とがなる。bぶっ壊 
(か) したらお前 (め) ハァ、プールん中さ叩っ込むがらな! 終わったら工具はステージの下さ放り込んどげ。あど、足軽 来たら必ず二階 (うえ) さ来させろ。いいな」

  歩き出した螢の背中に、卓也が囁いた。

  「一子は?」
  「曜子と先に行ってます」

  卓也は一瞬立ち止まって瞑目した。こいつは、荒れる。
  僅かに歩調を緩めた螢は卓也に何か言おうとした。しかし先を歩いていた工藤が階段の前でこちらを見ているのに気付き、黙って足早に階段へ向かった。
  その時三人は全く同時に気づいた。練習も終盤に入ったこの時間に至るまで、安川一子の名を口にした者が今日まだ誰もおらず、彼女が練習に来ていることにさえ誰も気づいていなかった。 

  

 

 

  


  二階の用具室に入るとホール側の壁に安西曜子がもたれ、まだビニールを被ったスチールデスクの横に置かれた丸椅子には安川一子が座っていた。
   二人が言葉を交わした様子はなかった。

  「まず火野先輩にお聞きしたいんですけど」  

  螢は声のトーンを落とした。

  「ゆうべの鍵当番、先輩でしたね。鍵はちゃんとかけま
したか?」
  「お前が後で確かめだえんちぇ」

  北に向いた窓枠に横座りしたまま、卓也は横柄に答えた。

  「頼みもしねえのによ」 

  反対側の壁に痩せぎすの長身をもたせかけていた安西曜子が、
幾分丈の長いスカートの下でゆっくりと足を組み替えた。半眼に見開いた瞼の下から、卓也に針の様な視線を放っている。

  「職員玄関のポストへ鍵はちゃんと返しましたか?」  
  「回りくでえの抜ぎにしてよ。結論ば先に言ってくんねェが。二本柳」

  螢の慇懃な言葉を卓也はいらいらと遮った。
螢の目尻がひく、と動いた。
   螢は苗字で呼ばれるのを極端に嫌う。初対面の相手には、たとえ男子生徒であろうと教師であろうと螢、と呼ぶよう要求するので、三年生の女子の間には彼女を密かに目の敵にするものも多い。

   「昨夜何かあったってが? 冗談でねェ、間違いなく鍵は閉めだし返したぞ」
   「どうだがね」

  横組みをしてそっぽを向いたまま、安西曜子は聞こえよがしに呟いた


  「言葉さ気ィつけろよ安西」

 卓也は螢と向き合ったまま低い声で言った。

  「俺が信じらんねえ、づうんならハァ、螢は更にあでにならねェって理屈さなっからな。おめ、螢の顔ッコ潰す気が?」
  「何訳の分がらねェたわごと並べでらのよ」

  曜子はだるそうな口調を崩そうとしなかった。

  「あんだが常日頃周りさ信用されねェのど螢と、一体どう関係するんだ?」
  「やれやれ、日本語通じねえってが」

  卓也は憂鬱に言った。曜子の顔を見た時から、どうせこういう成り行きになるだろうと腹を括っていた。上等だ。皿まで平らげてやろうじゃねえか。

  「おう安西」

  ゆっくりと卓也は足を踏み出した。

  「二本柳は俺が鍵かけだ後、嫌みったらしぐちゃんと掛かってっかどうか確かめだ、つってらんだぞ。だったらそれで何か問題あったづゥんなら、一体誰のせいよ。ああ? てめえさ俺に何が筋の通った因縁のつけ方ある、づうんならやってみろ」

  静かだが怒りに満ちた言葉に、曜子は舌打ちを残してゆらり、と壁から離れた。

  「止めなさい二人とも!」

  螢は威圧的な大声を出した。血色の悪い頬をひくつかせ、小首を傾げたまま曜子が陰惨な目で卓也を睨んだ。螢は無言のまま右手で曜子を制した。

  「ええ。言葉が足りませんでしたね先輩。それはお詫びしますよ。でもね、私が聞きたかったのはその後の事なんです。私が施錠を確認した後、火野さん。あなた本当に鍵をポストに戻しましたか?」
  「お詫びします、だ?」

  卓也はかっ、となって大声を出した。

  「鍵戻って無 
(ね) がったづうんなら、何故 (なして) 今日こここうやって使えんのよ!」
  「最後まで人の話ば聞いたらどうです!」
  「んだがら勿体つけねえでハァ、さっさと結論ば喋れって、毎度同じ事言わせんのよ!」
  「結論なら最初に言ってらべ」

  曜子が声を荒げ、腰に手を当てて二人の間に割って入った。

  「あんたがどうせまだ馬鹿やったに決まってらえんちぇ。下らねえ言い訳すんでねェ。男のくせに!」

  卓也は逆上寸前の所を辛うじて耐えた。螢は自分に盲目的な尊崇の念を抱いている曜子を、必ずしも庇うつもりはないだろう。彼女は曜子とは違う。そこまで傲慢で単純な女ではない。しかし彼女の卓也に対する自制心の方も、そろそろ限界に来ている筈だ。
  ならばここは中国四千年の秘策、敵をもって敵に当たらせろ、だ。
   卓也は意志の力を総動員して落ち着きを取り戻した。

  「最後まで話ッコ聞いで返事せえ、づうんならしねえでもねえ」

  曜子を無視し、卓也は螢に一言づつ区切って言った。

  「んでもまずそれ、安西さ先に言えばいい。この馬鹿女居っとハァ、話ろぐすっぽ先さ進まねええんちぇ。違うが」
  「この野郎、馬鹿だってがあだしが!」

  曜子の頬に激しい痙攣が弾けた。荒々しくリノリウムを蹴り、卓也に詰め寄ろうとする。
  その時だらしない靴音とともに、がらがらと戸が開けられ大友兵衛が入ってきた。ただならぬ気配に気圧されながら、後からおっかなびっくり下斗米悦史も顔を出す。

  「やあやあやあ諸君‥‥‥サミットやってるって聞いたけど、何 
(な) したの? いやに荒れてるんでねェ?」

  「タゴ。声でげえ」  

   引き戸の横で成り行きを見ていた工藤が苦々しげに腕組みをして言う。螢は大友のニキビ面を見て大きく深呼吸をし、子供相手の口調で語り始めた。

  「兵衛くん。今朝早くね、うちの生徒以外の誰かが無断で体育館に入ってたらしいの」
  「ふーん。ちなみに前がら疑問だったんだけど、今朝早く、と、昨夜、って、どの辺から違うのかなあ?」

  いつもの調子でまぜっ返す大友の惚けた顔を、はっ、と全員が胸を衝かれて凝視した。
  ――いや、一人を除いて。
  一人丸椅子に座ったまま安川一子は、何も耳に入らない様子で自分の華奢な手の甲をじっと見つめていた。

 
  続く

 



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