【第20回】 おくる言葉 (その1) [第2部]
影、つどう 《第20回》
-おくる言葉 (その1)-
BGM “The pretty maid milking her
cow (アイルランド民謡)”
「みんな、わたしん所 (どご) 訳わがんない女だど思ってる。ううん、いいって。わたしだって変だど思ってるがら自分の事。でも、少なくともわたし、馬鹿じゃないって」
安川一子は落ち着きを取り戻していた。そのうつろな顔を、校門の先の牧堀街道を行き交う車のヘッドライトが燐火のように青白く染めている。
交錯する光は微かな霧雨にぼやけ、時には嘲弄するように一子の頬の上をうねうねと這い回った。
「普通にしよう、しようって思ってるんだァ、いっつも。んでもそうしてると凄く怖い。何が怖いのか自分にも分がんないけど、時々ハァ、怖くていでも立ってもいらんなぐなる時あるよ‥‥‥」
鍵の閉まった職員玄関前のポーチに設えられた手摺りに背を丸めて座ったまま、一子はぽつり、ぽつりと話し続けた。その声は時折、水溜まりをはね散らしながら街道を行き来する車の音に掻き消されるほど低くなった。
隣には二本柳螢が座り、気遣わしげに彼女の横顔を覗き込んでいる。二人の背後に立つ卓也は、まるで護衛兵のような顔をしていた。
ポーチの周囲やバイク置き場の前、花壇のそばに居並んだ演劇部員たちは、先ほどから一言も発しない。
「時々ね、自分がとんでもない阿呆らしィ事してるような気ィするゥ。後ろでみんなが、『ああ、あいづハァまだ馬鹿なことしてる』ってこっそり笑ってら様な気ィしてさあ‥‥‥」
森美江から借りたベージュのカーディガンを通学コートの上から肩に掛け、いつもより少し早い息をつきながら、一子は熱に浮かされたように語り続けた。
卓也は野良犬のような目で一子の華奢な背中を見ていた。
――今こそ自分が、そして自分こそが今、彼女と同じどこの群れにも所属できぬものとして、真に一子を慰めてやれる言葉を口にしなければならなかった。そんな言葉を思いつけるのは自分しかいない筈だった。
自分しかいない筈だし、他の誰でもない自分でなくてはならぬ筈だった。
しかし、優しい言葉も気の利いた冗談も、何一つ思いつかなかった。何故か卓也の脳裏には、自宅のリビングルームで見もしないテレビをつけっぱなしにしたまま、一言の会話も交わさずテーブルに着いている母と祖母の姿ばかりが浮かんだ。
「――それで、はっ、と気ィつくど、それまで自分が何してらったんだが本当に分がんないの、いっつも。ああ、本当に何やってんだろう。私って」
そう言って一子は目を固く閉じ、膝の上で組んだ両手の甲に額を押しつけた。
「一体誰がそんなことを言うんです? 安川先輩」
顔を伏せた一子に向かって、螢が静かに問いかけた。不意に一子の唇が歪んだ。こみ上げて来た苦痛に耐えるように、食いしばった前歯の唾液が水銀灯の光をほのかに反射した。
螢は一子の肩に両手を置いた。
「あたしの知ってる範囲じゃ、そんな失礼なことを言う人は誰もいませんよ。いたらあたしが許しません。それに先輩は後輩思いで、おちゃめで、いつだってとってもいい部長さんだったじゃないですか」
「そうそう、ちっとも変でねえっスよ!」
先程から花壇の前で何か言いたそうにしていた大友兵衛が大声で割って入る。例によってふざけてた様子は微塵もない。
「俺ァ好きだよ、安川部長ん所 (どご) 。大好きだァ。あ、誤解しないでね。尊敬してるって意味だから。――とにがぐ、先輩がおがしいどが変わってるどが、そったな事ぬかす奴の方がよっぽどタゴなんですって。そったな野郎ッコはハァ、どいづもこいづも破れ傘刀舟先生さ頼んで叩っ切ってもらえばいいのッシ!」
「馬鹿この! おめえだろ人間じゃねえのは!」
隣にいた安西曜子が、げらげら笑いながら大友の縮れ毛を思い切り引っ張った。大友は本気で腹を立て、いきなり手加減なしの回し蹴りを曜子の腰に食らわせた。曜子は敏捷に反撃し、もつれ合う二人の影が教室棟の壁に大きく踊った。
緊張から解放された部員たちの間にざわめきが広がる中、一子は何一つ耳に入らぬように両手の甲に広い額を押しつけたまま、ぼんやりと目を見開いていた。
そしてふと何かに思い当たったように、螢は顔を伏せたままの一子を見守りながら次第に眉を深くひそめ始めた。周囲で交わされる言葉に笑いが混じり始める中、卓也は背後から黙って寄り添い座る二人を見ていた。
皆、なにか隠し事をしている。そして自分が隠しているものの意味を誰も知らない。何故隠さなければならないのか、その理由さえも。
正に、卓也自身がそうであるように。
「火野さん。あと10分ぐれえでタクシー来っぞ」
野太い声がした。牧堀街道の向かいにある能登屋商店まで公衆電話をかけに行っていた工藤哲矢が、やっと戻って来たのだ。
「全ぐよォ、先輩」
卓也の後ろで工藤は立ち止まり、小さな声でぼやいた。ポーチの落とす影の中にうっそり立つ工藤は、まるで後ろ足で立ち上がった動物園の熊のようだ。
「何故 (なして) こう言う厄介な話さなっと、毎度俺みでェな口下手が電話しに行がねばなんねェのスか? ものには適材適所、づぅのがあんでねえ?」
校門から走って戻って来たらしく、工藤の息はわずかに荒かった。
「口下手だがら適任なんだァ。お前 (め) さ」
不平を言う工藤に、そっぽを向いたまま卓也は答えた。
「こう言うややごしィ時ハァ、おめみでェに余計な事一言も喋らねえで、丸太ん棒で人の頭ば ふったつける ような話し方する奴の方が話ば的確に伝えられんのよ。それに面 (つら) ッコ見ねえで声だげ聞いでればハァ、どんな相手でもお前 (め) ん所、頼りになる奴だど勝手に信じ込むしよォ」
工藤は諦めたような表情で嘆息した。
「たったの一人しかいねェ三年生男子のお言葉ども思えねえスな」
「なに、おめの人徳だァ。誇りに思えばいがえんちぇ」
「火野さん。――ちょっとこっちさ来てけれ」
工藤はそれ以上卓也の怪しげな理屈に付き合おうとせず、――いつもの仏頂面とどこが違うのか、卓也にはよく分からなかったが――真顔に戻り、声を落としてさりげなく手招きをした。卓也は一子たちから離れ、4枚並んだ玄関扉の側へ行った。工藤は卓也を横目で見て声を低めた。
「こう言ったら何だども、随分と変たな家スね、安川部長ん所 (どご) ってよ」
水銀灯を目を細めて見ながら、工藤は小声で言った。
「何 (な) した。何か失礼な事でも言われだってが?」
「いや。そうじゃねえんだども、何か応対の仕方が尋常でねえのよ。あのお袋さん、この時間に寝起きだったのが? なんかぼーっとしてでよォ。やだら話が間延びしてで、こっちの言った事その場で忘れで何回も聞き返して来たり。それど家ん中さやだら柄の悪いのが何人も居でよ。怒鳴りまぐってらったの、あれ親父がな? 本当に堅気なんだべが? 安川さんの家って」
「哲っちゃん」
螢がポーチに腰掛けたまま首を巡らし、厳しい声を出した。
「話は後にして。車、すぐ来るの?」
「ああ。駅前がら石動町通って来る、つってらったがら速攻だ。――んで、何たなもんだ? 安川部長は」
一子の肩に右手を置いたまま、螢は工藤に小さく頷いた。
「家になんか帰りたくない」
不意に一子はよく通る声で言い、全ての視線がはっ、と彼女に集中した。
幾つもの視線がその交わる中心で焦点を結び、ピントが正しくあったように突然一子の姿は生々しい現実味を帯び始めた。
「帰りたくないよ。あったな、年中訳の分がらねェ親戚ばっかり出入りしている所なんかさ。あれじゃ本当の家族が誰なのがも分がんない‥‥‥そうだ、みんな言う! 一子は気立てが良いがら、きっといいお嫁さんさなる、って。冗談だべ!」
声の響きが変わった。
一子は囁くのをやめていた。今その口から発せられるのは、舞台に登った時の彼女が観客を圧倒する、人が変わったように力強い響き渡るような独白だった。
激越なことばは尚も続いた。一子はいつの間にか、自分一人の思いに没入しきっていた。
「勘弁してよ! 母さんみでェにハァ、人の顔色ばっかり伺ってる亭主のロボットさなれってが? それも、いどごよりちょっとばがり遠縁の野良犬みでェなぐうたら息子の‥‥‥」
不意に一子の声が、抑制された、しかし聞く者全ての背筋を凍らせんばかりの怒りに白熱した。
「私だば、私みでェなちんちくりんの不細工だばハァ、他に選ぶ権利もねえってが!」
「ええっ? 安川部長、婚約してたんですかぁ?」
軒庇の下で素っ頓狂な声を上げた藤原綾緒を螢が恐ろしい目で睨んだ。
再び沈黙が落ちてきて、真っ暗な中庭に囁くものは、峠を越した強風の遠吠えばかりとなった。大友は当惑しきって目をそらした。その隣で曜子は舌打ちして腕組みをし、そっぽを向いた。無心な様子を崩さぬ藤森美雪の隣で、心優しい中屋敷鏡子が右手でさりげなく目尻を拭った。螢さえも言葉を失い、当惑しながら無言で一子の肩をさすり続けていた。
卓也は工藤の傍らを離れると、ゆっくり一子の前へ回った。
再び顰蹙を買う心の準備が、やっと整った。
気障な仕草で片膝を折り、一子の横顔をのぞき込んで何気なく話しかける。
「一子。おめ、河南町だったな」
声もなく一子は頷いた。その老婆のようにか細い肩を、細心の注意を払って卓也はぽん、と叩いた。
「なあに、気にする事なんか無 (ね) がえんちぇ」
小さく笑って、それから卓也は一子に向き合うと、いつもの口調で一気にまくし立てた。
「笑いものにされようが何しようが、すったな事ァ今更どうでもいいべや。笑われんのは役者の勲章でねえのが? それに、ちょっと見でみィ周りば! どいづもこいづもハァ雁首揃えで、似合いもしねえ深刻面並べでらえんちぇ! 他のどったなタゴ助が下らねェ陰口叩こうと、少なくとも演劇部さいっ時のおめハァ、変態の部類さはまず入らねえ。『白鳥座』の変態つったら、とりあえず筆頭はこの俺だがらな。それどころかうちの部でのお前 (め) の立場つったらハァ、何考えてんだがよく分からねえけど誰からも愛される名物部長、づう一番おいしい役所 (やくどころ) なんだぞ」
卓也は思い切り軽薄な笑いを顔いっぱいに浮かべようとした。だが突然、かつて一子が前触れもなしにおかしな言動に走ったときの光景が幾つも脳裏によみがえり、卓也は何故か胸がいっぱいになってしまった。
そして卓也は気づいた。
そんな奇行を繰り返してさえ、一子は一度として周りの者を傷つけた事はなかった。
ただの一度もなかったのだ。
彼女の他にそんな奴がこの三高に、いや世界中にいったいどれほどいる?
その時、唐突に卓也の物思いは破られた
闇とおぼろな光が交錯するポーチの手すりに座ったまま、一子はいつの間にか静かに笑っていた。
微かに目を潤ませ、両手で頬を包み、一子は俯いたままこの上もなく幸福な表情を浮かべていた。
螢と一子の周りで、部員たちが目を交わし無言で頷き合っていた。大友が腕組みをしてうんうん、と大げさにうなずき、その横では安西曜子が、照れ隠しのように地べたを靴で幾度も蹴っている。
駐輪場側の人垣から中屋敷鏡子が進み出て、螢と一子を挟んでポーチの手すりに腰を下ろした。鏡子の一連の動作は極めて自然で身のこなしも美しく、卓也は鏡子が日本舞踊を習っており、そのせいでごく短期間に主役の動きをマスター出来たのだ、と言う噂を思い出していた。
それからほんの一時の間続いた沈黙は相互の理解と不思議な連帯感に満たされ、それは卓也にとってこの上もなく ばつ の悪い時間だった。
照れ隠しに卓也は、会計の大竹よつ子に向かって大声で言った
「大竹、タクシー代ば後で部費がら落どしといてくれ。ああ一子、お前の方は領収書必ず持って来いな。んでねェど脱税容疑で国税局乗り込んで来っからよ」
「先輩、ちょっと待ってちょうだい」
続けて無理に明るく振る舞おうとした卓也を、螢が鋭い声で制した。どうすればこの鹿 (しし) 威しのような張り詰めた声が出せるのか、いつまでたっても卓也には見当さえつかない。
「どうしたの? 寒いの?」
卓也は表情を改めると、小走りにポーチの前に回った。
見ると一子は、いつの間にか眉間に皺を寄せてじっと目を閉じていた。
「おい。何 (な) した? 今度は」
「黙って」
一子の前髪を丁寧にかき分け、螢は剥き出しになった広い額にゆっくりと掌を当てた。
螢の仕草はその憂いに満ちた表情と相まって不思議に高貴で、同時に見た者の永く忘れることが出来ない妖しい艶めかしさを帯びていた。
「いけない。ひどい熱だわ! ――あら?」
その時卓也と螢は同時に気づいた。
乾き切って薄く皮膜の張った一子の唇が、震えるように忙しく動いているのに。
言葉にならぬほどの早さで、なにごとかを囁き続けている。
いつの間にか一子は、再び奇怪な譫妄状態に陥っていた。
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【第19回】 夜が落ちてくる [第2部]
影、つどう 《第19回》
-夜が落ちてくる-
BGM エネミーズ “Deas 3”
▲
「おい。中さ誰いる?」
卓也は曜子から目を逸らし、声のした方に首を向けた。
格技場に続く渡り廊下の外れに工藤哲矢が立っていた。
工藤が普段滅多に出さぬ剣道部の主将をやっていた頃の声は、暗がりにびん、と響き、蛍光灯の下に居並んだ女子部員たちの青白い虚 (うつ) けた顔が弾けるように表情を取り戻した。
「そりゃ無理でしょ哲っちゃん」
横に立っていた大友兵衛が例によって素っ頓狂な見解を披露する。
「こごさいねえ奴さ返事しろ、つったって、そいづハァ言うだけ無駄でねえの?」
工藤は大友兵衛を突きのけると女子部員の間を縫って螢に駆け寄って来た。螢と曜子が工藤に向き直ると同時に、今度は卓也が螢の背中越しに大声で言った。
「おい、ちょっと待で! 今日の電源当番誰よ?」
「えっとぉ。あたし――ですけど‥‥‥?」
間延びした声が後ろでして、卓也は思わず噴いた。
「あたし、って‥‥‥おい、こら アラレ !」
きょうび日本中のどこの学校にも、“アラレちゃん” と呼ばれる娘が一人二人必ずいる。坂三の則巻アラレこと藤原綾緒は、湾曲した小さな蛍光管が映った丸眼鏡の下で、どんぐり目をぱちくりさせた。
「じゃ、なんでおめえ電当のくせに こご さ居んのよ?」
「えっとぉ、安川部長さんが代わってくれたんです。電気は自分が落とすって。あ! あの、私ちゃんとお礼なら言いましたよぉ、安川先輩に」
「この馬鹿たれ! よりにもよっておめえ、何であの病気持ちば一人で真っ暗な所 (どご) さ行かせだのよ!」
綾緒を怒鳴りつけながら卓也は玄関のドアに向かって駆け出していた。
「工藤、懐中電灯頼む。入り口の横さぶら下がってらべ!」
後ろも見ずに怒鳴り、卓也は下履きのまま体育館に飛び込んだ。真っ暗なホールに荒々しい足音が入り乱れて谺 (こだま) した。後ろで工藤が大型の懐中電灯を点灯し、切り株色の光輪が壁に踊った。
卓也は狭い階段を手探りで駆け上った。用具室の引き戸を力任せに引き開けると同時に工藤が卓也に追いついた。
「何 (な) した!」
円錐を描いて拡散する懐中電灯の光の中に、俯いた小柄な影が浮かび上がった。
入り口に詰めかけた部員たちに背を向けたまま、人影は微動だにしなかった。ひどく静かな数秒が過ぎ、やがてほっそりとした体は優雅な仕草でリノリウムの上にくずおれた。
突如として野分 (のわけ) が体育館を直撃した。窓枠が激しく揺さぶられて悲鳴を上げ、少女たちのあげる叫喚をことごとく圧殺した。
やってきたときと同様、唐突に突風が途絶えた時、用具室は薄っぺらな蒼白い光に染め上げられていた。騒ぎのさなかに誰かが壁の配電盤を開き、電灯のスイッチを入れたのだ。
壁の前に人の輪が出来ていた。その中心にしゃがみ込んだ螢の背中が見える。黒い冬服の背に無骨なほどがっしりと肩胛骨が盛り上がっていた。
安川一子は、螢に半身を抱きかかえられ苦しげに目を閉じていた。雨に濡れた歩道のような色をした広い額に血の気はなく、薄い唇が震えながら捲れ上がると口の端から濡れた歯茎がちらり、と覗いた。人垣の一番後ろで、一年の八木田智子が声を殺して泣いている。
控えめに肩を叩かれるまで卓也は、後ろに工藤哲矢が来ているのに気づかなかった。
「先輩。ちょっとあそこ――」
妙な目つきをした工藤は、躊躇いがちに背後へ顎をしゃくった。見ると、館内放送室の入り口の横に取り付けられた金属製の梯子の上で、天井のハッチが開いていた。
金属製の枠で囲われた分厚い蓋は、垂れ下がったまま空中で微かに揺れている。その下で、空気が微かに動いていた。
卓也は工藤と顔を見合わせた。学生服の下に着たYシャツの脇の下が、いつの間にか汗で冷たく濡れていた。
「安川が? こご開いだの」
小声で喋ろうとしたが、既に卓也の声は自分でも聞き取れないほどひどくかすれていた。
「俺さ聞かれでも分がんねェスよ」
工藤はにべもなく言い、眉をしかめて開かれたハッチを見上げた。
床に座り込んだ一子は放心状態にあった。螢は一子の耳許に何ごとか静かに語りかけていたが、やがて彼女も開いた昇降口に気づいた。螢は顔を上げ形のいい眉を鋭くひそめた。
部員の間に控えめなざわめきが生じ始めた。
「なあにあれ? 何故 (なして) あったな所 (どご) 開いでらんだ?」
「やだ! 安川部長何する気だったの?」
「待ちなよ。安川さんが開げだって限らないじゃない」
人だかりを挟んだ向こう側で、下斗米悦史がにわかにぎょっとした表情を浮かべた。首を巡らせてこちらを見る下斗米に向かい唇に人差し指を当てて黙っているよう合図して、卓也は下げ蓋の下に近寄った。
「ピンスポの位置でも確認ばしようとしてたんスかね」
卓也にうっそりとついて来た工藤が、相変わらず不機嫌な口調で言う。
「マジな面 (つら) して馬鹿語ってんでねえ」
「んでも先輩よ。あの人だばそのぐれえの事やりかねねえぞ」
「その辺にいる軽薄な女子 (おなご) どもさ滅多な話ば聞かせるな、つってんだよ。お?」
卓也は壁際に置かれた事務処理の済んでない新品のスチール・デスクに歩み寄り、鍵が差し込まれたままの南京錠を手に取った。
「何だ? 何故 (なして) こったな物こごさあんのよ?」
頑丈な横木が張り渡された体育館の天井裏には普段誰も入れない。そこに通ずるハッチの鍵はいつも職員室の壁に吊されていて、スペアはない。一子がここを開けたのだとすれば、彼女が一体何をしようとしたのか、卓也には見当もつかなかった。そもそも彼女は、いつこの鍵を持ってきたのか。
卓也は壁に歩み寄り、天井の隅に開いた四角い穴を見上げた。
そこは無明だった。そこにあるのは闇の精髄だった。
微かな風が目の上に吹き下ろして来る。
染みこんだ雨と濡れ土の匂いが、卓也の鼻腔を満たした。
そして、頭上すぐの所に、あれがいた。
開いた昇降口の縁にうずくまり、仰向けた卓也の顔を上から覗きこんでいる。
やっと一子が何をしたのか、卓也は理解した。彼女は 檻 を開けたのだ――。
「おい! みんな外さ出ろ。こごは わがね!」
浮き足立っていた部員たちが、卓也の大声でどっ、と動き出した。
梯子に足をかけて力任せにハッチを閉ざすと、卓也は鍵が入ったままの南京錠を片手で鷲掴みにしてハッチの掛け金へ嵌め込んだ。
背後では演劇部員たちが用具室の出口へ殺到していた。
狭い階段に足音が入り乱れ、急傾斜した狭い空間に鉄板を踏み鳴らす足音が荒々しく渦を巻いた。重く濡れた闇の中に、寸詰まりの悲鳴が幾つか途切れ、赤錆色の閃光となって飛び交った。
卓也は梯子から飛び降り、ホール側のマジック・ミラーになっている窓に駆け寄った。
真っ暗な体育館を、部員たちが戸口の朧 (おぼろ) な光目指して走って行く。先頭を行く工藤の持った懐中電灯が壁に床に、巨大な蛾のような光を踊らせた。恐慌に駆られて走る部員たちの周囲を、濃淡大小様々な影が狂気の舞を舞っていた。恐怖に見開かれた目が幾つか、闇の中で獣のように煌めいた。
鏡子と螢が一子を支えたままのろのろと歩いて行く後姿が見えた。倉科晶世がつまづいて転び、丸い太腿が剥き出しになった。安西曜子が駆け寄って助け起こし、側でおろおろ手をこまねいていた佐々木勤を突き飛ばし罵声を浴びせた。
最後尾になった佐々木が情けない声を上げながら戸口へよろばい出るのを見届けると、卓也は配電盤に駆け寄った。
スイッチに手を伸ばし、目を閉じ深呼吸をしてから、おもむろに用具室の明かりを切った。
心の奥深くで、闇の堤が切れた。
雪崩れ落ちてくる闇のただ中で、卓也は目をつぶって配電盤の冷たい蓋を一気に閉め死にものぐるいで駈け出した。
真っ暗な鉄製の階段で足を滑らした。ひじを二、三度手摺りにぶつけながら転げ落ち、跳ね起きて尚も走った。
とうに枯れてしまった、と思っていた恐怖が、黒い泉のようにとめどなく喉元に溢れ出して来る。
悲鳴を上げることは愚か呼吸さえ出来ぬまま、卓也は出口に向かって走り続けた。
続く (次回 “ おくる言葉 (その1) - 仮 題- ” をお楽しみに)
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【第18回】 朧 (おぼろ)会議 (その2) [第2部]
影、つどう 〈第18回》
-朧 (おぼろ) 会議(その2)-
「今朝ね。バレー部さんが朝練で来てみたら、正面扉の鍵が閉まってなかったたそうなの」
飛び込んできたばかりの、おまけにいつも一番話がとんちんかんな大友兵衛を相手に、螢は昨夜のいきさつを語りだした。
「ここ、合鍵って無 (ね) がったっけ?」
「女子バレーが朝ここ使うために五組の吉田澄さん、彼女が持ってるのよ」
「澄江?」
大友が素っ頓狂な声を上げた。大友と工藤、それに女子バレー部主将の吉田澄江が幼なじみなを知っていて、螢はわざわざ彼に話題を振ったのだ
ーー流石 (さすが) 螢。やるもんだな。
卓也は口許だけで微かに笑った。
話し相手を不意に変えることで場の流れを変えるやり方は、先ほど卓也がそうしたように螢も良く使う方法だった。
居合わせた部員たちがざわざわと勝手に話を始めた。螢の表情にも目に見えてほっとした色が伺えた。
「うん。確かに戸締まりは改めて確認したんだけどねえ。ーーあたし、澄さんから呼び出されてさんざんお説教されちゃった」
この言い草に卓也はむっとしたが敢えて黙っていた。今横槍を入れるのは得策ではない。安西曜子は病的に思いこみの激しい質 (たち) で感情の制御がきかず、時々何をしでかすか分からなくなる。螢が彼女の気勢を殺 (そ) ぐつもりなら、卓也にそれを邪魔する理由はなかった。
「あのでしゃばりハァ、そったな事言ったんだ?」
工藤が眉を吊り上げ、寄りかかっていたコンクリートの壁から身を起こした。同時に大友が甲高い声で笑い出した。
「澄江だばわがねェよ螢ちゃん。あのおばちゃんさかがったらハァ、あど、ご免なさいしかねえもの。何しろあいづハァ、生まれだ時からおばはんだもんね。な、哲っちゃん」
大友につられ後ろにいた下斗米も朗らかに笑い出した。更にその背後から最後に遅れて用具室に入って来た中屋敷鏡子が、二人の哄笑に目を丸くした。
「そう。あの人貫禄あるからね。何せ 『ちょっとあんだ、そごさ座りなさい!』 だもの」
苦笑混じりに螢は言った。
「なにしろ哲っちゃん、鬼のサブ公だってあいづさだげは頭ッコ上がらないもんね! やれだらしねェかっこするなの、髭のそり方がなってねえのって、言われまぐってさぁ」
戸口に立ったまま口を手で塞ぎ、俯いて肩を震わせ始めた笑い上戸の鏡子の横で、何を思ったのか工藤哲矢はひどく苛立ったように舌打ちをした。
「馬鹿が。お前 (め) ハァ」
引き戸を挟んだ反対側の壁に寄りかかっていた曜子は大友を細めた目蓋の下から睨んだが、すぐに横を向いて尖った肩をすくめた。
終始卓也は何も言わなかったが、今日ほど大友の単細胞に感謝した事はなかった。そして自分以上に安堵している螢の様子が。卓也には手にとるように分かった。
やっと場に落ち着きが戻ると同時に。卓也は気づいた。
屈託のなさが戻った螢の横顔を時折よぎる、説明出来ない戸惑いの色を。
それが何なのか説明はつかない。しかし自分が抱いている感情と、全く同種のものであることに疑いの余地はなかった。
「それともう一つ、ちょっとこれはまだ内密だけど。大事な話があります」
螢がそう切り出した時卓也は、自分の感じている微かな苛立ちの原因を悟った。
螢は、椅子に腰掛けたままの安川一子を凝視していた。
僅かに俯いて自分の靴の先端を見つめたまま、一子は尚も身じろぎ一つしない。
「これは未確認情報なんですが、下手すると近々体育館の使用時間が一時間ばかり切り上げられるかもしれないわ」
「まだあのクソ昆だな。いちゃもんつけてきたのハァ」
大友は掌に拳を打ち当てて毒づいた。
「あいづハァ、卒業するまでに必ず一度袋叩き (フグロ) にしてやるじぇ!」
「それと言うのもね」
舌打ちする大友を今度は無視し、螢は全員に向かって続けた。
「聞いたことある人もいるかもしれないけど、最近この校舎の周り一帯、校庭とかその先の畑や牧堀街道なんかを、夜中に変な奴らがうろついてるらしいの。で、みんなにお願いがあるんだけど、今日から帰る時はなるべく固まって動くようにさせて」
――なんだと?
頭の中に浮かんだことを反射的に喋ろうとして、卓也は二つ三つの話をいっぺんに口に出しそうになった。しかし卓也より早く、大友の後から下斗米悦史が大声で割り込んで来た。
「部長。そいつらを本当に見た人って、いるんですか?」
「はっきりと顔まで見た、って人はいないようね。でも下斗米くん、あんたは聞いてない? 道で後をつけられたり、いきなり木の陰から声をかけられたりした人があちこちにいるの」
「でもそんな不確かな話だけで、帰り時間を一時間も切り上げるってのは、何か見当外れだなあ」
坂超三高の一年生たちは女生徒の大半が螢に対して崇拝に近い憧憬の念を抱く一方、彼女らよりはるかに幼い男子生徒たちは、当の本人たちが流したさまざまな噂によって作り出されたいささか人間離れしたところのある近寄りがたいイメージを彼女に抱いていた。しかし現実に幾分癇癪持ちで強面のところがある螢に対しても、下斗米に物怖じする様子はなかった。
「それこそ帰る時だけ固まって帰りゃいいって話で済むんじゃないんですか。牧堀街道は一本道だし、別に寂れた道路でもないでしょ。車だってがんがん通ってる。あ、部長はみんなと帰るの反対方向だけど、螢先輩なら心配ないスね」
そう言って下斗米は生意気そうに笑った。だがそのずけずけとした口調には、どこか良くできた姉に甘えている弟を思わせる響きもあった。真後ろで工藤哲矢が苦々しげに舌打ちしたが、下斗米は気づきもしない。
少し困ったような目で下斗米を見、螢は口調を変えた。
「でもね。あなた牧堀のおかしな騒ぎ、今どのくらい大きくなってるか知ってた? それにね下斗米くん。この騒動どこかおかしいのよ。説明は出来ないけど、いや、説明がつかないからこそおかしいのかもしれないんだけど」
下斗米は部長の目を真っ向から覗き込んだ。
その双眸がすっ、と細められるのを卓也は見逃さなかった。間違いない。この二人もまた何事か隠したまま、さりげない言葉で互いの腹を探っている。
「規模は大したことはないね確かに。でも、今牧堀に起こっているのは何というか――そう。とても 変わった 事なのよ」
「変わってる、づうのは螢」
いつもの悪い癖で、卓也は前置きなし二人の話に割り込んだ。
「 危険 だ、って意味が?」
「何がうろうろしてるのかは分からないにせよ、少なくともそいつが変質者より安全だ、とは誰にも言えないでしょう?」
螢はすかさず窓の前の卓也に向き直り、一気に言い返した。意表をつく螢の反応に卓也は少し驚いた。どうやら螢は、卓也が口を出してくるのを待っていたらしかった。
痴漢だ変質者だ、とのんきに色めき立つ大友の脳天を、いつの間にか後ろに回っていた工藤が拳で一撃した。痛そうにつむじを押さえる大友を部屋の隅まで引きずって行き、工藤は顔と顔とを間近にくっつけて大友を睨み付けた。
卓也は一同の前に進み出た。
「な、螢よ」
「――はい」
ひどく雄弁な、しかしその意味合いの全く説明できぬ長い沈黙の後で、螢は抑揚のない返事をした。
「ぶっちゃけた話お前 (め) 、俺があの鍵ば返す前にもう一度戸ば開けたかもしれねェ、どが本気で考えでらったのが。正直に答えでけねが」
卓也は声に力が入らなかった。
最近、自分にはおかしなことが起こっている。急に記憶が曖昧になり、それまで自分が何をしていたのか時折思い出せなくなるのだ。自分が果たして本当に鍵の始末をしたかどうか、卓也は急に自信がなくなってきた。
「ええ」
ややあって、螢は卓也の顔を真っ向から見ながらはっきりした口調で言った。
「可能性として考えられる、と思いましたから。気に触ったらお詫びします。確かに、まずありえない話です」
卓也は答えなかった。壁際で曜子が尖った肩を竦め、へっ、とあからさまな嘲笑を漏らす。
「やめなよ安西」
大友が悲しげな口調で曜子をたしなめた。苦々しげに舌打ちをすると曜子は出口に歩み寄り、開いた戸を閉めようともせず用具室を出て行った。
「なら螢。俺が戻した後、誰かがポストがら鍵ば持ち出したって線はどうだ。そして昨夜のうちにポストさ戻した、づうのは可能性として全くあり得ねェ話が?」
皮肉や嫌みを交えたつもりは全くなかった。今だけはそれを螢に分かって欲しかった。
「それどもう一つ。バレー部の、あのガタイのいいのが合い鍵持ってらんだべ。んだば奴が玄関開けようとした時、鍵がどっかさ引っかかったんでねえのが? ガチャガチャやってる間に両方向さ回してしまった、ってのは?」
「あ、それ私時々やります」
螢の隣にいた中屋敷鏡子が言った。
「一瞬、鍵かかってなかったような気がして焦っちゃうよね、あれやると」
「なるほどね」
螢も頷いた。
「でもね。厳密に言うと、最初に気づいたの澄さんじゃないのよ鏡ちゃん。、ドアが開いてるのを見つけたのは、彼女より先に来ていた1年の娘たちなの。他に演劇部が夜ポストに鍵を戻しているの知ってるのは先生たちしかいないわ」
「じゃ奴らでねえの? だって他考えられねえじゃん」
用具室の隅へ工藤に引きずられて行った大友が、脳天から出るような声で茶々を入れた。工藤は舌打ちしてもう一度、大友の後頭部を平手で殴った。
「哲っちゃん痛えよ!」
「その馬鹿、死ぬまでに必ず直せ」
気の抜けた沈黙が一同に落ちた。
いや。
最初から沈黙を守っている者が一人、いた。
安川一子は首筋の後れ毛一本動かさなかった。全員の視線が絡み合いながら次第に彼女の淡い前髪に集中し始める。
そしてついに、彼女の沈黙が、その場の全てを圧倒した――。
卓也は目を細め一子を凝視した。
背骨の髄から、説明のつかない不快な感覚が全身に広がってゆく。外界を一切拒絶しているが如き一子の無表情は、卓也の苛立ちに一層拍車をかけた。
心のどこかにどうしても思い出せない記憶が一つ、封印されたまま窒息しそうに身悶えている。激しい閉塞感に卓也は次第に息が荒くなるのを覚えた。
あの時俺は一子と一緒にいた。そして一子は、確か俺に何か言った。何か―― 途方もなく恐ろしいこと を。
「安川。お前誰か見ねがったが?」
内心の動揺に耐え切れなくなり、卓也は苦し紛れに一子に小声で水を向けた。
一子は答えない。尚も沈黙は続いた。
その場を取り繕うため螢が何か言うかと思いきや、彼女も無言のまま一子の言葉を待っていた。二人を見交わしているうちに、卓也ははっ、と胸を衝かれた。
螢は、三浦司と同様のことをしているのではないか。
何かを隠して、そ知らぬふりをしながら皆から情報を集めようとしているのでは?
「安川。――な、一子。お前どっか体悪ィのが?」
卓也は声の大きさを日常のレベルに切り替えた。
突き飛ばされたように一子はぎくっ、と体を起こした。
「あ、ごめんなさい。あたしったら何ぼうっとしてらったんだろう‥‥‥」
「なあ」
卓也は溜息混じりに言った。
「そいだばお前、マジで病気だぞ。ほんとに大丈夫が?」
「さ、お開きにしましょう」
今度こそ本気で場を取り繕うように、螢はぱんぱん、と手を叩いた。皆ががやがやと出口に向かい、螢は椅子からゆっくり立ち上がった一子の顔を間近に覗き込み、何か話し始めた。
二人の様子を見ながら卓也は一度、思い切って螢と差し向かいで話さねばならない、と思った。
明らかに一子の様子は普通ではない。彼女について出来る限り腹を割った話を螢とし、彼女に関して取りあえず何らかの意思疎通を図っておく必要があった。
螢と感情的にならず話せる自信はほとんどない。しかし卓也には、傷つくことを恐れねばならぬような男としてのプライドを何も持っていない、と言うただ一つの強みがあった。それを強みと呼ぶにあたっては、三浦や進藤はもっと違う見解を持っているだろうが。
皆が出て行き、用具室には卓也と、まだ椅子に座ったままの一子に小声で何か話しかけてる螢だけが残った。急に静かになると、部屋を満たした空気の成分までもが変化したようだった。
「安川。もう行くべや」
卓也は出来る限り優しい口調で言った。
一子は僅かに頷いて立ち上がった。螢はもう、卓也と言葉を交わすつもりはないようだった。一子に戸口を開けてやり先に通すと、戸を閉めようとした螢は、北に開いた窓に向かい動こうとしない卓也を訝しげに見た。
戻ってきた10月末の夜の静寂と風の音が運んできた、奇妙な考えに卓也はとらわれていた。
「帰らないんですか?」
「ああ、しゃあねえ。行ぐが」
いじり回しても仕方のない下らぬ考えを振り落とすように、卓也はぼさぼさに髪の伸びた頭を振り回した。
「螢よ。先生方が俺達 (おいだづ) さここの使用時間ば切り上げさせたがってる理由、一体何だど思う?」
足早に歩き出しながら卓也は言った。
「遅くなると道が暗くなるから早く帰れ、って事でしょう。他に何か考えられます?」
「考えでみるど、もう一つあんでねえが?」
卓也は肩越しに水滴の浮いた闇色の硝子窓を見つめたまま言った。
「体育館がら早く出でげ、づう事よ」
螢は立ち止まり卓也の横顔を見た。ひどく不快げだったが、そこに少なくとも卓也への嘲りの色はなかった。
「陽が暮れてからは連中、あまり生徒に こご さいで欲しくねえのかもな」
卓也は知らない。昼休みに螢を呼び出した澄江が語った体育館の話には、実はまだ先があったことを。
突風がごう、と高い屋根を揺すった。もう夜は、どっしりと校庭に腰を据えている。
「それに考えでみっと、大友の馬鹿の言うとおりだ。俺たち以外にこご開けられるのはーー」
「ここ、閉めますよ。もう」
螢はうんざりしたように卓也をせきたてた。
いつの間にか、何もやってもうまく行かない徒労感が演劇部全体に取り憑いている。
それは良くない兆 (きざし) だった。
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【第17回】 朧 (おぼろ)会議 (その1) [第2部]
影、つどう 〈第17回》
-朧 (おぼろ) 会議(その1)-
――何してるの? あの人ったら。
二本柳螢は眉をひそめた。
ステージを挟んだ下手側の箱形階段に、一年の副部長下斗米悦史と並んで火野卓也が座っている。
火野は奇妙な行動を取っていた。
ふざけているのだろうか?
神経質な動作で、がっくり落とした首をきょろきょろ見回し異様に激しい瞬きを繰り返す。しかも気のせいだろうか、左右の瞼が全く別々に開閉している。
持ち前の物好きぶりを発揮して、何か妙な一発芸でも身につけたのだろうか? あれは、そう。多分あれだ。大分前にタモリがテレビでやっていた、阿呆らしいイグアナの真似だ。
それにしても、隣で呆れている下斗米の当惑した表情は何だろう。到底冗談ごととは思えない表情だ。無理もない。火野の動作はあまりに真に迫り、どこか人間には不可能な筋肉の動かし方をしているようだ。
そう言えば、てんかんを起こした人、と言うのは、えてして眼球があんな風に動くのではなかったか?
――知るもんですか!
螢は決然と火野に向かって歩き出した。その肩をぽん、と誰かが叩いた。
振り向くと、安西曜子だった。
螢の耳許に口を寄せて、曜子は二言三言囁いた。周りがうるさすぎて何を言っているのかよく分からない。曖昧な表情で頷くと、曜子は下卑た大声で笑い、そのまま二階へ続く階段へ走り去った。 螢は乱暴な足取りでホールを横切った。
「先輩。火野先輩?」
金縛りが解けたように、体がびくん、と跳ね上がった。
毛穴、と言う毛穴からどっ、と冷たい汗が噴き出してくる。まるで全身が失禁したようだ。
焦点が合うと、目の前に二本柳螢のすらりとした姿があった。
――なんだ? 何があったんだ?
卓也はのろのろと立ち上がりかけ、やにわに愕然とした。
記憶のある部分が完全に抜け落ちている。
数秒の時間が経過した感覚だけは途切れずに残っていた。しかし大量に印刷された書類に一枚だけ白紙が紛れ込んだように、その数秒間は完全な空白だった。
動悸が激しさを増し、血液の巡りがついて行かなくなる。貧血に似た目眩が襲ってきた。
「大丈夫ですか? 先輩」
下斗米が不安げに顔を覗き込んでいた。
何も目にしなかったような声で、螢は頭上から卓也に言った。
「火野さん。今、お手隙ですよね」
硬直した卓也の心に、螢の声はひどく遠く響いた。
「話し合いたいことがあります。下斗米くん、あんたも来て」
随分長い間、螢は辛抱強くそこに立っていたようだった。天井から降り注ぐ太陽の光に似せた合成光が、銀の眼鏡に反射して卓也の目を射た。
いつになく穏やかな螢の態度が卓也に落ち着きを取り戻させ、そして同時に新たな動揺をもたらした。
やっと自分に返ると同時に、事の重大さが次第に分かって来た。
かげにひなたに様々な衝突を繰り返した挙げ句、螢を筆頭と仰ぐ女子部員たちは今や、その大半が卓也の潜在的な敵に回っている。安川一子とただ二人の三年生で、昨年は副部長も務めた卓也だったが、部の運営に関しては大概蚊帳の外に置かれていた。今では任期も終わり、肩書きだけの役職さえない。 なのにこの期に及び、会合へ出ろと螢は言う。しかも出向いてきたのは螢本人だ。
どうやら本式の会議ではないらしい。とすれば考えられる理由はたった一つ。
久方ぶりに俺の吊し上げだ。
昨夜のリターン・マッチだ。
ほかにどんな理由がある?――
体育館を取り巻く闇のどこかで、雉が一羽、狂った様に鳴いていた。
どこかで雉が鳴いていた。
激しく羽激く気配すらある。
もうそんな季節でさえないというのに。
卵を狙う狐もイタチもとうの昔に姿を消し、そのように鳴き騒ぐ一体いかなる理由があると言うのだろう?
警告なのか。
何の。そして何者のための。
演劇部に限って言うなら、前夜襲った地震の被害は甚大だった。完成直前だった書き割りにポスター・カラーがこぼれ、一枚が台無しになった。
それと、慌てて走り出した衣装係の小池ゆかが踏み割った、人形と呼ばれる書き割りの支えが一体。 ゆかはこれに足を取られて転倒し、膝頭を擦りむいた。人的被害はそれだけだった。
しかし坂越の市内では玄関先で足首を捻挫した老婆が唯一の負傷者に数えられたのだから、ゆかの負傷が報道されなかったのは各新聞社の怠慢と言うべきだろう。
しかし、結局前夜の地震で一番損をしたのは、書き割りと人形の制作者である 大工コンビ――大道具係の工藤哲矢と大友兵衛だった。
やっと新しい書き割りに下絵を描き直し、一端書き割りをどかして人形の修理に取りかかったばかりの工藤の所に、二本柳螢がやって来た。後にはなんと仏頂面の火野卓也がいる。
工藤は内心げっそりした。この二人が仲良く連れ立って来ること自体が、既に尋常ではない。なんにせよ、また何かろくでもない事態が起こったのだ。
6時を大分回り、練習は終了に近付いていた。トタン屋根を時折叩いていた雨音はいつしか間遠くなり、まどろみ始めた夜気には静かに鉄の錆びて行く匂いが沈殿していた。ギャラリーの上ではどんぐり眼 (まなこ) に眼鏡の藤原綾緒が『機動戦士ガンダム』の再放送を見逃した、と大騒ぎしている。
「哲っちゃん兵衛は? こっちに来てたみたいだけど」
「忘れ物ば取りに、教室さ行ってら」
惚れた女と並んで座り、こんな雨音をいつまでも黙って聞いているのもいい、などと柄にもなく空想していた工藤は、現実に引き戻されてぶっきらぼうに答えた。
「ちょっと! どうやって校舎入るのよ。もう鍵閉まってるでしょ」
「おめの教室、窓の鍵壊れでらえんちぇ」
「1組の窓って、‥‥‥何? まさか雨樋かなんかよじ登って二階へ上がるわけ?」
螢は目をつぶり、こめかみを揉んだ。 そう。よく分かっているのだ。進藤にせよ火野にせよ、無論大友にせよ、およそ男の子、と言う生きものは決して人間の部類に数えてはならないことぐらい。
「哲っちゃん。話があるの。今、手空く?」
工藤はむっつりと頷いて、教室棟側のギャラリーに首を向けて怒鳴った。
「こらササキン! 遊んでねえでいい加減こっちさ来 (こ)!」
「なあに? 大統領 さん」
巻き上げ式になっているバスケット・ボール用ゴールネットの側から、眼鏡をかけた小柄な少年が顔を出した。先ほど脇役をつとめていた佐々木勤だ。
「何よ。そのダイトウリョウ、づうのは!」
「大工の棟梁で 大棟梁 」
よっ、大統領! と森美江がステージから手でメガホンを作って茶々を入れた。衣装係の片割れ大竹よつ子と、いつの間にか舞台に戻っていた落ち着きのない藤原綾織が、顔を俯 (うつむ) けてげらげら笑った。女どもには構わず、工藤はギャラリーの佐々木に三寸釘を投げつけた。
「なめだ口叩いでねえで、この人形ばさっさど直せ。釘の二、三本もぶっ込んどきゃ何とがなる。bぶっ壊 (か) したらお前 (め) ハァ、プールん中さ叩っ込むがらな! 終わったら工具はステージの下さ放り込んどげ。あど、足軽 来たら必ず二階 (うえ) さ来させろ。いいな」
歩き出した螢の背中に、卓也が囁いた。
「一子は?」
「曜子と先に行ってます」
卓也は一瞬立ち止まって瞑目した。こいつは、荒れる。
僅かに歩調を緩めた螢は卓也に何か言おうとした。しかし先を歩いていた工藤が階段の前でこちらを見ているのに気付き、黙って足早に階段へ向かった。
その時三人は全く同時に気づいた。練習も終盤に入ったこの時間に至るまで、安川一子の名を口にした者が今日まだ誰もおらず、彼女が練習に来ていることにさえ誰も気づいていなかった。
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1年ぶりに短編書きました。 [お知らせ]
約1年ぶりに短編を一つ 書き上げました
一年ぶり と言うより
あの運命の 3/11以降
初めて 完結させた物語です
小説を書く 心の余裕など
一切持てない 日々が続きました
いかなる荒唐無稽な 小説さえも描き得ぬ 運命に
もてあそばれ始めた 予測不能な この国の明日
そして 次第に
その 信じがたい無策ぶりが 明らかになってゆく
子供の想像力さえ持たず 右往左往するばかりの
この国の 指導者たちに対する 戦慄さえ伴った不信
そこにはいかなる意味の “美”のかけらもない
いかなる物語も 描き得ぬ
醜悪な むき出しの 恐怖だけがありました
それでも
僕の頭の中には
やがて 物語の種が
幾つも 芽を出し始めました
しかし
それが この3/11以降の
既に 未曾有の恐怖を知ってしまった 世界にとって
一体 何の意味があるのか?
僕は ひどい自己嫌悪に陥りました
逃避と依存のために 書くのか?
いや そもそも
自分自身に とってさえ
自分の 書いているものは
自らが 逃避する場所にさえ
なりえないではないか
挙句 僕は
自分の
頭の中にあるものに
嫌悪感さえ 抱くようになりました
陸続として報じられる 不吉なニュースと
脳内の 陰惨なイメージが
破滅的に 共鳴しあい
絶望だけが 膨らみ
物語を書く 気力が絶えてしまったのです
しかし今
ようやく
こうして 一つのつたない物語を
まとめることが 出来ました
これは とても悲しいお話です
しかし
書かずにおられませんでした
そして 僕はあえて信じます
たとえ 理由がわからずとも
僕にとって どうしても必要であったことは
きっと ほかの人たちにとっても
必ず
何がしかの意味を持つであろう と
震災で 自分を犠牲にして
見ず知らずの 人々を救った
名もなき英雄たちの 伝記から
何かを 受け継いだかのごとく
一時は 自分の存在意義を見失い
沈黙を余儀なくされていた
各界の 表現者たちも
少しづつ 息を
吹き返し始めたようです
結局 すべての人は 自らの役どころと
信ずる所を成すことで
この世界を 豊かにしてゆくのかもしれません
長文 失礼いたしました
黒瀬 硅 (カ ラ ス)
“有明 (ありあけ) の家”
【第16回】 視 線 (その4) [第2部]
影、つどう 〈第16回》
-視 線 (その4)-
BGM アラン・パースンズ・プロジェクト
“アッシャー家の崩壊” より Ⅳ・パヴァーヌ
▲
今、校舎は獣のような眠りについた。
人の姿が消えると同時に、前世紀そのままの寂寥に満ちた外の夜気が校舎に忍び入って来た。
そして夜が更けるにつれ、廊下や教室に電子錠で閉ざされていた闇は、次第に屋外を満たすそれと同質のものに変わっていった。
本格的な木枯らしの季節までは僅かに間があった。
この時期、風は北からではなく、遙か西に秀峰を連ねる奥羽山脈の前哨をなす樺山山地を吹き下る。人々が家に帰り着くころ、風雪にねじ曲がった赤松の枝々が叫び始める。
山肌を一気に駆け下り、浄善寺ヶ原へ雪崩れ込んできた夜風たちの、荒びた狂宴が始まるのだ。
校舎の裏に広がる草原を雨混じりの夜風が叩くと、薙ぎ倒された薄(すすき)の群落が一斉に身悶えた。天井の高い廊下は真っ暗で、消火栓のランプだけが暗い埋もれ火のように廊下のそこここを照らしていた。しかし東側の体育館にはまだ煌々と明かりが灯され、校舎の中でそこだけはまだ、規則正しく時が流れていた。
「どうして?」
中屋敷鏡子は叫んだ。
「あなたたちは、どうしてもっと高いところから自分たちの境遇を見つめようとしないの!」
叫びが天井の高みに呑まれると、暗がりに張り渡された鉄材の微かに震動する気配が床板にまで伝わってきた。
体格の良い藤森美幸がふうむ、と頷いて腕組みをし、森美江と佐々木勤が声もなく顔を見合わせた。
二年の美江と一年の佐々木は両方とも小柄で、特に今回端役と大道具係を兼任する佐々木勤は、隣で腕を組んでいる美幸より5㎝も背が低い。一方の美幸は二年生で、大柄な体とふっくらした頬を持ち、男子部員が慢性的に足りない三高演劇部では入部以来人の良い中年男や少々鈍い若者の役ばかりをやらされている。
俯いて考え込む美幸に、すかさず鏡子が指を突きつけた。
「権三。あなたはどうなの? やまいに伏せっているおっ母さんが心配じゃないの? でも領主さまに代わって私達が、私達の手で政治(まつりごと)を行うようになれば、病人やお年寄り、身寄りのない人たちが安心して暮らせる様になる。この国はきっと変わるわ。必ず変わるはずよ!」
「そう、簡単に行くべがなあ?」
のんびりとした口調で美幸は呟いた。わざと間合いを外したスローモーな台詞回しは、意志的で歯切れのいい鏡子のそれと、見事な好一対を成していた。
「それにおら、とてもじゃねえがまつりごと、なんちゅうがらでねえしなあ‥‥‥」
捉え所がなく茫洋としていて、普段はあまりものも言わずにこにこ笑ってばかりいる美雪に対し、主役を演ずる中屋敷鏡子は品の良いほっそりとした娘で、控えめだが聞く者の耳に心地よい簡潔な口調で話す。演劇部では副部長をつとめ、部長の螢とはクラスメートでもあり彼女にとって最も頼りになる片腕だった。
鏡子は舞台の中央に進み出ると両手を開いた。
ゆっくりと首を上げ、夢見る様なまなざしを虚空に馳せて語り始める。
「貧しい者の気持ち、搾取される者の悲しみは、そうされた者でなければ決して分かりっこない。殿様とお百姓は憎み合うだけ。永遠に変わりっこないわ。何一つ」
ここで鏡子は床を蹴り、ぱっと振り向いて美幸に人差し指を突きつける。ジャンプ気味に身を躍らせるのは、鏡子自身の発案だった。
「でも、それならあなたがこの国を治めればいい! あなたが、そしてわたしたち全てが国の掟を作るの。お侍も百姓もない、みんなで力を合わせ知恵を集めて、共に働く者同士がこの国を動かして行くのよ。そうすればあらゆる貧困や矛盾はこの国から消えてなくなる!」
凛、とした声を響かせて鏡子は小さく、しかし渾身の力を込めてダン! と床を踏み鳴らした。
「いつの日か。いつの日か、きっと、そうなる!」
叫びが足音の残響と混じり合って不思議な和音となり、木霊を残し消えた。
一瞬の沈黙の後、全員が溜息混じりに姿勢を崩した。
「はあい。ごくろうさま! 4分27秒」
バスケコートのセンターホールに立った螢がいつものようにパン、と手を叩いた。運動着には着替えず、冬服のセーラーのままだ。
螢はにっこり笑って舞台上の鏡子に親指を立てた。鏡子も笑い返し、日本風に整った顔を恥ずかしげに俯けた。
はっきりしない理由で主役を降板した安川一子の後釜に抜擢されたばかりの頃は、目も当てられない棒読み棒立ちをしていた鏡子だが、最も親しい友人でもある螢の親身な演技指導により、この半月で見違えるように豊かな感情表現を身につけつつある。
短い三つ編みにした栗色の髪を閃かせ、森美江が乱暴にステージからホールへ飛び降りた。後から鏡子がおっとりした動作でホールの床に降り立つ。佐々木勤は両腕を上げて生あくびをしながら上手へ消え、舞台に一人残った美幸はしばらくステージからホールの床を見下ろして考え込んでいたが、やがてこくん、と頷いて下手の箱型階段の方へ歩き出した。
「ねえ先輩」
不器用な仕草でのこのこ後を通って行く美幸をやり過ごしながら、階段に座った下斗米(しもとまい)悦史はくすり、と笑った。
「全く誰が書いたのか知らないけど、ここらへん昔の全学連丸出しですね」
悦史と並んで座っていた卓也はちらりと腕時計を覗き、BGMの音出しのタイミングを計算しながら答えた。
「ああ、それもよっぽど派手に暴れで、まともに挫折した奴なんだべな。なんせ後さなっと きく はまるで重信房子だおん」
ボールペンをパチリ、と鳴らし、卓也はメモ帳を閉じた。
一年生の副部長を務める下斗米は大学教授の一人息子で、少々ほかの一年生たちとは毛並みが違っていた。途方もなく頭の回転が速く、中学生気分がまだ抜けない同級生からは“ハカセくん”と仇名をつけられているが、所属する放送委員会のひねくれた連中は彼を宮さま、と呼ぶ。
「しかしなんぼなんだって、こったな時代劇で搾取はねえべや。搾取は」
「そんな事言ってたら、切りないですよ。階級だの連帯だのってマタギの娘のくせにまるで民青‥‥‥」
その時、何か重大な過ちを思い出したように、卓也ははっ、と首を上げた。
細めた眼窩の奥に微かな怯えの色を浮かべ、下斗米の頭越しにゆっくりと上方を見やる。
――いる。たしかに。
下斗米の端正な顔に、微かな困惑が浮かんだ。
「どうかしましたか?」
「いや」
卓也は台本に目を戻した。
「何か、聞こえますか?」
軽く肩をすくめる卓也の頭上で、耳障りな摩擦音がした。
ざりっ‥‥‥
高みから、見下ろすものがいる。
舞台全体が何者かの視線に捉えられている。
何故か、卓也にはそれが分かった。誰も気づいていない。
それがどのような視覚と視野を持っているのかは分からない。
しかし、放たれる視線には悪意も作為もなかった。なにものかはただ愚鈍な興味だけでもって、視野に入るすべてを 記憶 していた.
何一つ見落とさず、しかし目にするもの全てに、視線は何一つ意味を見出してはいなかった。
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――木枯らし吹き荒ぶ田園に展開する、闇と光の青春群像。





